(食事中の方は読むのは避けていただけたらと思います。)
外国人と日本人の交流会行ってきました。
今までそんな集まりに行ったことはなかったので初めのうちは戸惑いましたが、ボール運びゲームなどを通してなんとなく打ち解けることができたかと思います。
慣れるにはこういうのを続けていくしかないのでまた地道な行動を続けていかないといけませんね。
中学生の時に塾へ行ったあと、の学生時代はある程度学力があったのが強みでした。
しかし、学生時代には最大の強みですが人生という名の広大な海をやって行くのには糞の役にも立たないということです。
今ちょうど便秘なのでむしろ糞が出てくれたほうが役に立ちます。
学校から会社へ飛び乗ると要求されるスキルが全然違います。
学歴は問題にされますがあまり学力は問われないイメージがあります、実際どうなのか分かりませんが。
勤労の義務というのがあるように仕事をするのがほぼ常識となっている世の中です。
仕事もせず色々遊んでいる人は「悪」、という風潮が多かれ少なかれあるのを感じます。
しかし、本当に仕事を探している間は遊んではいけないのか?学生ならテスト期間中に遊んではいけないのか?
私はそんなことはないかと思います。
学生時代テスト期間中に普通に新作ゲームを買いに行ったりしてましたがむしろそっちの時のほうがゲームも学業も満たされていました。
教室内でプチゲームトーナメントをやった時も何とか優勝できました。
就活という名の最恐最悪の呪いに縛られ続けていましたが、色々な理由で無職の人たちこそ遊んだほうが光が見えるんじゃないかと思います。
就活も遊びもある程度のお金がかかるので制限しがちですが、ちゃんとある程度の収入支出の家計簿を書いて出来る範囲で使わないとダメなのかなと思います。
今の世の中で「遊ぶための金をくれ」と言ってもくれるわけはありませんが何とかねん出してください。
必ずこれは食べてるお菓子などのし好品とかならすぐ辞められるかと思います。
辞めて違うことをやってみてもしダメならまた戻せば良いじゃないですか。
仕事がない→お金がない→やることが制限される→人との付き合いが減る→・・・みたいな負のスパイラルを抜け出すのは容易ではありません。
単にお金の問題だけでなく心の問題も多分に入ってくるはずなので。
NHK第2ラジオで社会福祉セミナー|NHK福祉ポータル ハートネットという番組をやっていたのを聞きました。
話の内容は「認知症」の家族や周りの人の対応に関する話をしていました。
「ちゃんとやってよ」「どうして出来ないの?」という言葉は言ってる本人には悪気はなくとも、聞かされる側にとっては毎日叱られていると感じると。
「ゆっくりやっていいんだよ」という言葉や、相手が話してることを聞いてるだけでも認知症の人の症状は和らぎ認知症の人とその家族は生活が楽な方に向かうという話でした。
なかなか当事者の家族が実行に移すのは難しいかと思いますが、負のスパイラルはどこかで変えなくてはどん底まで落ちてしまいます。
中学の時担任の先生の標語に「どん底に落ちた後は這い上がれば希望の光が見える」というようなのがありました。
確かにどん底に落ちきったところから這い上がることが出来たなら何でも光に見えますが、それが出来ず潰れていく人たちもいます。
相手を身体的、心理的に、攻撃するという行動は多くの人は「どうして自分のことを分かってくれないんだ」という心理から来るのかと思います。
どちらかが理解してくれれば解決するのでしょうが、どうしても理解できない相手もいるかと思います。
これが親子など家族となると一大事です。
家の外へ出ていける環境のある人は心休まる時間がありますが、未就学児や仕事が見つからない人などはどうしても一緒に過ごす時間が増えてしまいます。
出て行こうにも金銭面・精神面で出て行けない、この環境で耐えるしかない、これは本当にきついです。
やはり昔ながらの、いわゆるお節介おばさんの声かけみたいなのはすごく重要なのだなと感じます。
もちろん相手が迷惑そうにしてたらダメですけどね。
あいさつだけでなくちょっとした雑談もはさんでくれると相手が困ってる場合少しばかり話しやすくなるかと思います。
あいさつしないよりかはマシかと思いますが解決までの速度はやはり言葉と言葉のやり取りが一番です。
返事が遅くとも1分ぐらい待つ気持ちでお願いしたいです。
また、話すときは相手の顔を見ていただけるととてもうれしいです。
普段見えない人を助けるというのは相当な難問ですが、まだ外へ行く力があるなら人目を気にせず遊びましょう。
なんか言われたらもうそれはしょうがなかった、その日がたまたま不運だった、と考えるようにしましょう。
無理にでもそうしないと今の私には現状を打破出来る策は思いつきません。
(読み返してみましたが、あまりつながりがない文章で大変申し訳ありません。)
外国人と日本人の交流会行ってきました。
今までそんな集まりに行ったことはなかったので初めのうちは戸惑いましたが、ボール運びゲームなどを通してなんとなく打ち解けることができたかと思います。
慣れるにはこういうのを続けていくしかないのでまた地道な行動を続けていかないといけませんね。
中学生の時に塾へ行ったあと、の学生時代はある程度学力があったのが強みでした。
しかし、学生時代には最大の強みですが人生という名の広大な海をやって行くのには糞の役にも立たないということです。
今ちょうど便秘なのでむしろ糞が出てくれたほうが役に立ちます。
学校から会社へ飛び乗ると要求されるスキルが全然違います。
学歴は問題にされますがあまり学力は問われないイメージがあります、実際どうなのか分かりませんが。
勤労の義務というのがあるように仕事をするのがほぼ常識となっている世の中です。
仕事もせず色々遊んでいる人は「悪」、という風潮が多かれ少なかれあるのを感じます。
しかし、本当に仕事を探している間は遊んではいけないのか?学生ならテスト期間中に遊んではいけないのか?
私はそんなことはないかと思います。
学生時代テスト期間中に普通に新作ゲームを買いに行ったりしてましたがむしろそっちの時のほうがゲームも学業も満たされていました。
教室内でプチゲームトーナメントをやった時も何とか優勝できました。
就活という名の最恐最悪の呪いに縛られ続けていましたが、色々な理由で無職の人たちこそ遊んだほうが光が見えるんじゃないかと思います。
就活も遊びもある程度のお金がかかるので制限しがちですが、ちゃんとある程度の収入支出の家計簿を書いて出来る範囲で使わないとダメなのかなと思います。
今の世の中で「遊ぶための金をくれ」と言ってもくれるわけはありませんが何とかねん出してください。
必ずこれは食べてるお菓子などのし好品とかならすぐ辞められるかと思います。
辞めて違うことをやってみてもしダメならまた戻せば良いじゃないですか。
仕事がない→お金がない→やることが制限される→人との付き合いが減る→・・・みたいな負のスパイラルを抜け出すのは容易ではありません。
単にお金の問題だけでなく心の問題も多分に入ってくるはずなので。
NHK第2ラジオで社会福祉セミナー|NHK福祉ポータル ハートネットという番組をやっていたのを聞きました。
話の内容は「認知症」の家族や周りの人の対応に関する話をしていました。
「ちゃんとやってよ」「どうして出来ないの?」という言葉は言ってる本人には悪気はなくとも、聞かされる側にとっては毎日叱られていると感じると。
「ゆっくりやっていいんだよ」という言葉や、相手が話してることを聞いてるだけでも認知症の人の症状は和らぎ認知症の人とその家族は生活が楽な方に向かうという話でした。
なかなか当事者の家族が実行に移すのは難しいかと思いますが、負のスパイラルはどこかで変えなくてはどん底まで落ちてしまいます。
中学の時担任の先生の標語に「どん底に落ちた後は這い上がれば希望の光が見える」というようなのがありました。
確かにどん底に落ちきったところから這い上がることが出来たなら何でも光に見えますが、それが出来ず潰れていく人たちもいます。
相手を身体的、心理的に、攻撃するという行動は多くの人は「どうして自分のことを分かってくれないんだ」という心理から来るのかと思います。
どちらかが理解してくれれば解決するのでしょうが、どうしても理解できない相手もいるかと思います。
これが親子など家族となると一大事です。
家の外へ出ていける環境のある人は心休まる時間がありますが、未就学児や仕事が見つからない人などはどうしても一緒に過ごす時間が増えてしまいます。
出て行こうにも金銭面・精神面で出て行けない、この環境で耐えるしかない、これは本当にきついです。
やはり昔ながらの、いわゆるお節介おばさんの声かけみたいなのはすごく重要なのだなと感じます。
もちろん相手が迷惑そうにしてたらダメですけどね。
あいさつだけでなくちょっとした雑談もはさんでくれると相手が困ってる場合少しばかり話しやすくなるかと思います。
あいさつしないよりかはマシかと思いますが解決までの速度はやはり言葉と言葉のやり取りが一番です。
返事が遅くとも1分ぐらい待つ気持ちでお願いしたいです。
また、話すときは相手の顔を見ていただけるととてもうれしいです。
普段見えない人を助けるというのは相当な難問ですが、まだ外へ行く力があるなら人目を気にせず遊びましょう。
なんか言われたらもうそれはしょうがなかった、その日がたまたま不運だった、と考えるようにしましょう。
無理にでもそうしないと今の私には現状を打破出来る策は思いつきません。
(読み返してみましたが、あまりつながりがない文章で大変申し訳ありません。)